40代は子どもの自立や受験、自身や親の健康状態など、暮らしやお金の面でさまざまな変化が訪れる時期です。そのような環境の変化に応じて、長期離職からの再就業やキャリアチェンジを考える女性も多いのではないでしょうか。

このインタビューでは、年齢に関わらず自らの意思で仕事や働き方を選択している女性をロールモデルとして、40代以降の女性が新たな一歩を踏み出すためのヒントを探ります。

今回は、50才を過ぎて起業した経験を持ち、長年NPO法人の理事長として複数の事業に取り組まれてきた吉田恭子さんにお話を聞きました。

━━ まずは現在の仕事や働き方について教えてください。

約15年間務めたNPO法人の理事長職を引退して、2024年の5月からは個人での活動を中心としています。

━━ NPO法人ではどのようなことをされていたのでしょうか。

NPO法人エンツリーという団体で、設立当初から理事長をしていました。今も非常勤の理事として関わっています。

女性の社会参加や子育て支援、創業支援、多文化共生などに取り組み、自治体との協働事業、コミュニティスペースの運営、講座の開催などを行ってきました。

専業主婦から50代で起業

━━ もともとキャリアのスタートはどのような形でしたか。

大学を卒業してすぐに結婚したので、キャリアのスタートは本当に遅いです。

私が4人兄弟の4番目だったこともあり、若いお母さんになりたいというのが1つの夢でした。早く子どもを産んで、子どもが大きくなった後に好きなことをやりたいと考えていました。

23才で結婚したところまでは人生設計の通りでしたが、そこから子どもがなかなかできなくて。結婚から8年経って1人目が生まれ、それからまた6年間。2人目を授かるまで、子どもを待っている日々が続きました。子どもを待つ間は、いつでも辞められるアルバイトの仕事しかできず、常に宙ぶらりんで気持ちが落ち着かない状態でした。

2人の子どもが生まれてからは、下の子が中学生になるまではお母さんに専念しようと思っていました。

下の子が5年生の時、塾に送っていく車の中で、「この子が中学に入ったら私は好きなことをしよう」と思いながら、ふと考えたら、自分がもうすぐ50才になることに気がつきました。

当時、50才というとパートの求人にも応募できないような時代で、いろいろと考えた中で、漢検やファイナンシャルプランナーの勉強を始めたりしていました。

そのうちに姉が「50代女性のためのネットショップを一緒にやろう」という話を持ってきてくれて、面白そうだからやってみることにしました。

周りからは「上手くいかない」と止められましたが、ダメならやめれば良いと思って、一から勉強して始めました。

そして、開業の相談をした税理士さんに「問屋さんを相手に仕事をするのなら、まずは会社を作りなさい」と言われたことから法人登記をしました。

すると、会社名と役職を書いた名刺さえ持っていれば、すごく大きな問屋さんもちゃんと話を聞いてくださるということが分かったんです。複数の会社との取引ができました。

信頼の作り方というのか、信用してもらうためには何が必要かというのを、肌身を持って感じたというのが大きな収穫でした。

━━ ネットショップの起業から、どのようにNPOの設立に至ったのでしょうか。

ネットショップでは、いわゆる手作り作品の販売もしていました。手作り作品を作る方やサイトを手伝ってくれる方とのネットワークを作りたいと思って、文部科学省の助成事業として開催された「女性のためのキャリアアップコーディネーター養成講座」に参加したのがきっかけです。

その講座の受講生が12人集まって、2006年に最初の任意団体を立ち上げました。
当初はノープランで、みんなで話しているうちに、「自分たちが学んできたことを活かして、私たちが受けたい講座を作っていきたいね」ということになりました。

受講した人がそれを活かして社会参加していこうと思える講座を作ろうというのが、みんなの共通のコンセプトになりましたね。

様々な講座やイベントを企画・運営していた

そして、2008年に女性の社会参加支援を目的とするNPOを立ち上げました。

行政と協働で様々な講座を開催して、託児がある講座も多かったのですが、ママとお子さんが一緒に元気になっていく様子を肌身で感じて、女性の社会参加支援をしていくためには子育て支援も必要なんじゃないかと思いました。

それで、八王子市からの委託事業に手を挙げて、多摩ニュータウンにある子育て支援施設の運営を始めることになりました。

2017年からは府中市の市民活動センターの仕事も受けることになり、今では、子どもから高齢者まで、自分たちで何かやりたいと思っている方に支援の対象が広がりました。

新しく挑戦したことも、みんなで話し合っていく中で一人では考えつかないことが実現できた

━━ お子さんを送る車の中でふと何かしようと思われた時が1つのターニングポイントとなって、そこから地続きの変化が続いている印象を持ちました。

そうですね。もともと計画的な人間ではないので、何かふっとひらめいたり、ふっと小耳に挟んだりしたことをきっかけに動くことが多いと思います。

━━ ふと思ったことを、どのようにして実現されてきたのでしょうか。

ありがたいなと思うんですけど、本当にすごく人に恵まれていて。

何か転機の時や困った時に、色んな方が助けてくださったり、何気なく言われたことがヒントになったり。いろんな形で助けをいただいて、その時々を乗り切ってこられたなとすごく思います。

━━ 周りの方から助けをもらったり、一緒に取り組んだりする上で心がけられていることはありますか。

たぶん、私を1人でほっとけないと周りの人が思ってくれるんだろうなと思っていて、思いつきで動いてしまう私をみんながいろいろ修正してくれるので、そのおかげでやってこられたっていう感じはしています。

エンツリーの立ち上げでも、新しく挑戦した府中の仕事でも、色んなバックボーンやリソースを持った人たちが集まってくれて、みんなで話し合っていく中で、私一人では考えつかないことが実現できました。

“いくつになっても遅いことはない”、“どんなことも無駄にはならない”

━━ 今は個人での活動を中心に取り組まれているということですが、今後はどのようなことを予定されていますか。

これからは高齢者を対象とした活動を考えています。自分も高齢者になったので、その立場だからこそ分かる当事者視点での活動をしていこうと準備しているところです。

高齢者とかお年寄りって、昔は地域や家族の知恵袋のような役割があったと思うんですけれど、今はインターネットが普及して、おじいちゃんおばあちゃんに教わるということがなくなってきました。いろんなことがIT化されて、スマホを使えないと申し込みができないとか、タッチパネルの操作が上手くできないとか、そういう経験をした高齢者が自信をなくしている状況がすごく多いと思うんですね。

━━ 40代50代の私たちにとっても、将来の自分ごととして考える必要があることだと気づかされます。

今回、久しぶりに思い出したことがあるんですけど、私がまだ30代半ばの頃、子どもが通っていたスイミングスクールのコーチの記事がミニコミ誌に載ったことがありました。

その方は当時65才くらいだったと思うのですけど、ご自身が還暦を迎えたときに、「泳ぐという経験をしないまま死ぬのは嫌だ」と思って60才からスイミングスクールに通われたそうです。水泳始めて2年くらいの時に、スイミングスクールから「ベビースイミングのコーチをやってくれませんか」と言われたということでした。

経験が浅いのになぜ声が掛かったかというと、ベビースイミングに通うママや赤ちゃんへの接し方がすばらしかったからということらしいんです。
ベビースイミングのコーチに必要なのは、泳力よりも、ママからの信頼や赤ちゃんの扱い方だということだったので、それならやってみようと思って引き受けたという内容でした。

それを読んだ時に、いくつになってからでも、やる気があって、踏み出す勇気があれば、そういうことができるんだな、子どもを育てることは大変なスキルで、どんな経験も無駄にはならないな、と思いました。

その記事から、“いくつになっても遅いことはない”、“どんなことも無駄にはならない”という2つのことを教えてもらって、その後も何かあると自分の背中を押してくれています。

このコーチのような高齢者が街のあちこちにいらしたら、楽しいと思いませんか?

高齢者が若い人たちの手の回り切れないところを手助けする、若い人たちが高齢者の困りごとをサポートする、お互いに顔を見合わせてにっこりするようなことが当たり前になったらいいなあと思っていますので、少しずつでもそのお手伝いをしていきたいと、私自身も今ワクワクしているところです。